Place(場所の記憶
 この時代を代表する場所があります。私達、都会の若者達だけの特権的な場所であったように思います。

新宿風月堂(喫茶)
 文化拠点として60年頃から70年代前半の時代の象徴的な存在が風月堂でした。滝口修造、白石かずこ、谷川俊太郎、寺山修司、三国連太郎、岸田今日子、天本英世などなどが集まったと言われ、ジャズが流れる文化的な雰囲気というか雑多というか、いい加減さも相当なもので、70年前後からアングラ、反戦運動、新左翼の拠点として名声、轟き、一日中コーヒー一杯でたむろできるというのでフーテンの溜まり場となり、ラリって階段を転げ落ちても追い出されなかったと。常時、アメリカやフランス、ドイツなど外人のヒッピーが30,40人出入りしており、マリファナやLSDが売られているという噂も立ち、伝説化しました。麿赤児の話によれば唐十郎と初めて出会ったのは風月堂だったと書いています。女性は10人程度しかいなかったとあります。
 週刊誌にも取り上げられ、全国から若者達が押し寄せ、何時間も店にたむろし、芸術的な雰囲気は薄れ、各種のトラブルから73年に閉店に追い込まれてしまいました。以降、二度とこういう喫茶店は現れず、やがて喫茶店文化は衰退していきます。私も何回か行きました。煙草の煙でもうもうとしていました。混んでました。うるさくはなかったですが、静かという雰囲気は欠片もありません。常連さんが多いところは、あまり居やすいものではありませんが、ここは私のように何かあるのでは、という気分で入った人も多かったです。


  奥原哲志「琥珀色の記憶」より

福島菊次郎「戦後の若者たち」

アートシアター新宿文化(映画館)・アンダーグラウンド蠍座
ATG映画の拠点であり、数多くの実験的な映画、演劇、舞踏を上演。地下のアンダーグラウンド蠍座も少人数スペースで実験的な演劇を上演。

新宿アートシアター 毎日新聞社「連合赤軍”狼”たちの時代」         蠍座 右は新宿文化支配人葛井氏、左は三島由紀夫
 
映画館側の入り口。こちらの方が御馴染みです。           蠍座の入り口。地下に入ります。

天井桟敷館
天井桟敷の拠点として活動。天井桟敷以外の演劇なども上演した。

粟津潔デザインで1969年開館、76年に閉館。1階が喫茶店、地下が劇場、2階が事務所。               劇場への入り口(階段の降り口)

                  1階喫茶店の内部  寺山修司全仕事展テラヤマ・ワールドから
天井桟敷館の公演案内

新宿アートビレッジ
暗黒舞踏の公演拠点だったところで、周囲はストリップ小屋が立ち並ぶ歌舞伎町のど真ん中。舞踏のところでも話しますが、酔っ払いが間違って入ってきてしまう。宣伝もほとんどしなかったので、いつも10人足らずの観客の前で芦川さんと嵯峨さんが踊っていました。目黒の方は当時は稽古場であったような感じがします。74年に引き払い、目黒でシアター・アスベストとして開館します。芦川さんのメモがありました。(保存)チラシは72年9月から12月のものです。暗黒舞踏の公演は9月と11月に入っています。

1971 細江英公撮影


新宿紀伊國屋
 大型書店ですが、文化拠点としての意味も強くありました。多くの若者が本屋に来ると同時に周辺はフーテンのたまり場ともなりました。社長の田辺茂一は文化人としてもよく知られていましたし、70年代に湧き上がってくるアングラ文化にも理解を示しました。花園神社の氏子総代であった縁から状況劇場が花園でテント芝居を行えたのも田辺氏の支援によるものだったらしいと麿赤児が書いています。


渋谷ジャンジャン
渋谷の西武百貨店近くの教会の地下にジャンジャンというライブ・ハウスが70年くらいに開館します。100人も入らない小さなライブハウスですが、当時はジャズ以外ではライブハウスがほとんどない時代ですので、五輪真弓、吉田拓郎、美輪明宏、井上陽水、RCサクセションなど、当時は無名だった多くのミュージシャンがライブを、本当に手を伸ばせば届くような場所で演奏していました。私も何度となく行きました。99年に閉館したそうですが。このチラシは73年1月のスケジュール表です。
                            


吉祥寺 ぐゎらん堂(伽藍堂)
1970年に開店したライブハウス(当時はライブ・スポットと言っていました)。その所在地は、「ぎんぎら通り13番地」と呼ばれ、吉祥寺フォークの拠点となったところです。高田渡、シバ、中山ラビ、加川良、なぎらけんいちといったメンバーが代表的です。80年までの黄金期には500回以上のライブ・コンサー トやイベントを企画・開催し、訪れた客数は延べ50万人以上を数え、今日のニューミュージック界に大きな影響を与えたとされています。1985年閉店。(Wikipediaより)
1974年高田渡 「横木安良夫」ブログより
フォークの拠点は、東京中央線の西荻のロフト(73年開店、81年閉店)が有名です。ロフトは最初に烏山、次いで西荻窪、下北沢、76年に新宿ロフトを開店しています。新宿ロフトのみが現在も運営されています。その他、高円寺の次郎吉(74年開店)も有名で、当時、中央線は3寺と呼ばれた吉祥寺、国分寺、高円寺が若者のメッカでした。また、私は行ったことはないですが、泉谷しげる、古井戸、RCサクセションが出演していた渋谷の青い森もあります。

吉祥寺 曼荼羅

 1974年にオープンしたライブハウスです。今でも大いに賑わっているようです。ここが曼荼羅かと、でも入ろうとして混みあっていて辞めた記憶の方が大きいのですが、表にぶら下がっていたチラシはよく集めました。さすがに昔の写真は・・・。下は80年代半ば。


新宿ピットイン
1965年に開店したジャズのライブハウス。当時は40席。人気のある人が出演する時は、すぐ満杯になった。その後、3回、移転。渡辺貞夫、山下洋輔、日野皓正、淺川マキなどが出演。ジャズの隆盛は、この時代のフォークに並んで音楽シーンを盛り上げます。ロックは日本人ではスターがおらず、むしろジャズがスター揃いでした。ジャズ喫茶が恐ろしいほど出現します。メッカだった京都には100軒近くあったかと思います。それこそ全国から若者達がジャズ喫茶を目指したのです。ジャズ喫茶の方も音質を競い、外国製のサウンド・セットを競っていました。やがてロック専門の喫茶店も出現しますが、ロック専門のライブハウスは形成されず、ジャズのライブハウスがロックをも演奏するようになります。

ピットイン入り口 渡辺貞夫1975年2月 チャーリー・パーカー・メモリアルコンサート アサヒグラフ96.2.9「ピットイン30年」       坂田明の演奏  「新宿ピットイン」晶文社   
懐かしかったので新宿ジャズ喫茶DUG
ピザール

草月会館・ホール
60年代の前衛的な音楽、現代美術、ダンス、フィルム、演劇の拠点です。その頂点はジェン・ケージやラウシェン・バーグを招いてのパフォーマンスであったでしょう。70年代にも前衛的な役割は変わりませんが、比重は下がります。世代が変わり、前衛の内容が、泥臭く、日本的な情念が迸り出る形に変容し、草月会館的な洗練された、知的なものから遠ざかることが要因でしょう。少し古いですが、ジョンケージを含むフルクサスメンバーと オノヨーコのパフォーマンス。1962年 草月会館。ジョンケージは64年にも来日、オノヨーコ以外に映画監督の足立正生も参加していたようです。
今はなき草月会館 丹下健三設計

赤坂MUGEN

1968年に開店した外タレのライブが売りの”ゴーゴークラブ”(まだDISCOと言う言葉がなかった時代)。サイケデリック・カルチャーをつくろうと思った(プロデューサー浜野氏)ということですが、ほぼ完全にR&B。オール黒人のバンドが演奏していました。他ではなかなか聞けない素晴しい演奏でした。お客の7割方が外人で、黒人のグルーピーみたいな女の子が多数いました。アイク&ティナ・ターナー、サム&デイブ、コン・ファンク・シャンなどR&Bアーティストが多数ゲスト出演しました。当時では珍しく今で言う黒服が入場のチェックをしていました。あの頃、繁華街のあちこちにあったゴーゴー・バーとは雰囲気も、レベルも大きく違い、高級感があり、ふらりと入れるような所ではありません。                      

         http://discotimemachine.web.infoseek.co.jp/mugen.htmlより
何故かローマ像が立っていました

アイク&ティナ・ターナーのライブ・チラシと入場券

全盛を誇ったMUGENもバブル経済に突入の1986年、姿を消しました。

模索舎・ウニタ書店(新左翼系書店)
新左翼の隆盛と共に、それらを扱う書店が都内など大都会に増加していきます。新宿の模索舎、それ以外にも1,2軒あったような。渋谷、御茶ノ水、吉祥寺などにはウニタ書店がありました。当時、ミニコミが大量に出され、その販路になります。当時、創刊したロッキング・オンやピアも最初はこれらの書店で売られていたのです。腹腹時計という爆弾の製作本がミニコミで売られ、警察の手入れを受けたのも、模索舎やウニタ書店でした。
今は模索舎が生き残るだけです。写真は最近の模索舎ですが、昔とそれほど変わりません。むしろ、周辺の変化が激しく、青線地帯の端に模索舎はあったのですが、青線の舞台であったバーなどは全部、と言っていいほど滅びました。周りはビルだらけになって、取り残されたように営業しています。今でも新左翼やミニコミ誌で溢れる店内は、タイムスリップしたような印象を持ちます。


新宿ゴールデン街・新宿2丁目
60年代から70年代の新宿ゴールデン街は文化の吹き溜まりというか、何か強いエネルギーを発していて、多くの若き芸能人や文化人が集まってきます。この頃の新宿は、かつて遊郭があった時代の雰囲気が濃厚にあり、独特の臭いを発していました。2丁目周辺にはヌードスタジオやゲイバーが数多くあり、素人を寄せ付けない凶暴な様相がありました。
平嶋彰彦「昭和20年東京地図」
                                 カラー写真は「新宿郷愁」日本文化社から

白黒写真は渡辺克己「新宿<1965-97>
 下記の本は、この当時のゴールデン街でバーのママさんの話が雰囲気を伝えています。多くの俳優などが出入りしていたようです。話す中にある五兵衛、むささびは下の地図には無いようです。時代によって新宿ゴールデン街も変わり、評判から雑多な人間が集まるようになると、有名人が消え新たな人種が入り込む形です。上記の写真は60年代も末がやっとで、半ばくらいの頃ではないかと思います。私がわずかに知っている時期は、こんな雰囲気ではありません。
 


雑誌「Angle」 1979.7当時

 呑み屋は何もゴールデン街だけではありませんで、サラリーマンばかりが多かったバーや居酒屋などに若者が雪崩れ込んできていました。


京都:ほんやら洞
 昔のアサヒグラフを見ていたら珍しいものが出てきましたので掲載しておきます。私も2度ほど行きました。出張の時に寄った程度で、イベントは知りませんし、行ったのも全盛期を過ぎて、あまり客もいなかった。なかなか不思議な雰囲気のところです。普通の民家の雰囲気があり、奥には畳敷きの部屋があったように思います。


アサヒグラフ 1975.3.25

京大西部講堂
 こちらは、アングラやフォークのコンサートが行われ、東京でもよく知られた場所でした。私も何回か、ここで関西のアングラ演劇やダンスなどを見ました。西部講堂は80年代も東京ロッカーズなどの発表の場になるなど現在でも歴史的な「箱」です。
ここに映っている方々は誰なのかは知りません。
京大西部講堂の機関紙「姦報」。これは80年頃に発刊されたようですから、我々の時代のものではありません。