Dance(舞踏)
バレーの歴史では1909年ディアギレフ率いるロシア・バレー団のパリ公演が、それまでの若い女の子が踊るのを見るという芸能的な要素が強かったバレーを一新させ、クラシック・バレーが成立する新たな時代の始まりとなります。それは同時にディアギレフ、そして初期の代表的なダンサーであったニジンスキーによる前衛的なダンスは欧米世界に大きな衝撃となって伝播して行き、ヨーロッパでダンスの大ブームが起きてきます。ディアギレフは借財を背負いながらも20年にわたってヨーロッパでの公演を続けます。
ディアギレフから始まるダンスの革新は、アメリカにイサドラ・ダンカンを生み、バレーに対抗するモダンダンスを生み出します。日本で最初にモダンダンスに取組んだのは、石井漠で、昭和初期の頃です。石井漠が選んだのはドイツの体操とダンスが組み合わさった、時のバウハウスなどの影響や思想があり、ロシアのニジンスキーの表現形式も多く学んだようです。
ヨーロッパでの大ブームは日本にも波及し、石井漠のダンスも人気を拍し、高い評価を得たといわれます。世界各地での公演や、海外からダンサーを招くなど、昭和初期の日本でブームを巻き起こします。
石井漠舞踊研究所が自由が丘に作られ、石井漠のモダンダンスは娘の石井みどり、朝鮮の崔承喜、大野一雄らの多くの弟子を育て、戦争の中断こそあったものの、戦後も途絶えることなく脈々と受け継がれ、日本各地にモダンダンスの教室が作られてました。底辺が拡大する中で、モダンダンスの世界も、我が国の芸能に特有な閉鎖的な師弟関係、家元制度に近いものが形成されるようになったといわれます。
一方、アメリカではマーサ・グラハムが出てドラマ性や社会を強くした踊りを創出するなどの革新が行われます。また、マース・カニングハムは60年代、現代音楽のジョン・ケージと組み、パフォーマンス性の高い踊りを作り出します。ヨーロッパでは、フランスを中心に身体技法としてのパントマイムが盛んになったこと、ドイツではシュタイナーの神秘主義の中から生れてきたオイリュトミーの普及など、アメリカとは、また、違う動きがありました。これらの動きの中で日本のモダンダンスも大きな変革期、従来のモダンダンスを乗り越えようとする動きが起きてきます。昭和30年代にフランスにダンス留学した及川廣信はパントマイムなど、最新の身体表現を日本にもたらし、及川はアルトー館を設立して、そこに土方巽、大野一雄、大野慶人、笠井叡が参画して、ダンスから「舞踏」に革新する舞台装置が出来上がります。