金ピカの時代〜狂熱のディスコ


 この大流行に私が気づくのは、週刊誌のグラビアに、お立ち台に立って、ジュリアナ扇子を持って踊りまくる娘どもの写真で溢れてからです。この下の写真で大勢が写っているものはバブル時代の写真募集で見つけたマハラジャとジュリアナ東京の写真です。

 80年代はマハラジャを中心にした六本木がディスコの中心地で、80年代も半ばを過ぎると、ワンレン・ボディコンと言われる女性のスタイルが確立されていきます。男はアルマーニのスーツに、まっ黄色か青のネクタイ、金のジャラジャラしたものを身に付けます。

  マハラジャ
 マハラジャを経営していたのは、常連さんに囲まれてニコニコ顔の26歳と23歳の兄弟だったとフライデーで紹介されています。ディスコでのアルバイト上がり、従業員には交際範囲の広い遊び人を選び、彼らの友人を呼び寄せて店の雰囲気作りをしたのだという実にバブリーな話が紹介されています。月の売上は5千万円を下らないとあります。この時代のディスコの状況を知る上で岩崎トモアキ「東京ディスコ80’s&90’s」が最も優れています。
Friday'85.12

平成5年8月24日 京都新聞夕刊より引用

「バスや電車の中で、横に立つ女性の方が背が高い時なんか、肩身が狭いなあ・・・」。男ばかりで集まれば、こんな愚痴がつい出てしまうほど、近ごろの女性の目立ちっぷり?は、いやに気になる。 そんな男たちを台の上から見下ろし踊り回るセクシーなボディコンの女の子たち。東京都内のディスコ「ジュリアナ東京」に始まった熱い旋風が、昨年暮れ「マハラジャ祇園」(京都市東山区祇園町)にも上陸。三味線の音が流れてきそうな「祇園」の文字が「GION」に変わり、やがて電飾のように輝きそうな土曜の夜、冷夏も吹っ飛ぶ場内に足を踏み入れた。


マハラジャ麻布十番 岩崎トモアキ「東京ディスコ80’s&90’s」

目立つのが快感なの

 午後九時。それまでレストランだった場内から客が去ると、にわかに空気まで一変。次々やって来るふだん着の若者たちの中に、ひときわ目立つ女性たちが数人。 いずれもハイヒールに超ミニのスカート、ボディーラインもあらわな白や黒の衣装。手には鳥の羽根をいっぱいつけたような扇子を持つ。うむ、最近テレビや週刊誌をにぎわす「お立ち台ギャル」とは彼女たちのことか。 中央のホールに客が集まり、踊り出す。初めは、ふだん着組が軽く体を動かす程度だったが、一時間後。ころ合いをみはからったように、十数人のギャルがさっそうと、お立ち台に並んだ。場内の沸騰点がぐんぐん上昇する中、「ゴールデンタイム」を迎えた。

 祇園店名古屋店

まるで女神

 ホールの周りの高さ約1.5メートルほどの台に上ったギャルは、扇子をひらめかせつつ腰を大きく左右に振る。 ホールにひしめく百人近くが彼女らを仰ぎ、動きを合わせ始めた。 踊りをリードし、一群を陶酔状態に導く彼女らはまるで女神か菩薩(ぼさつ)のようなまばゆさだ。  「職場のストレスを吹き飛ばせる」「職場以外の友達ができる」と、お立ち台効果について、城陽市のOL(20)と、山科区のインストラクター(20)は、そう答えた。 「昨年の夏からこのスタイルで踊り続けている」という南区の歯科衛生士(21)と大阪市旭区のフリーター(20)は「この服装、目立つし、かわいいもん」。 女の子の中には、親がテレビでジュリアナ東京の模様を見て「あんた、こんなことしてるの」と、怒られた人もいるのだが・・・。彼女らは、ほとんど毎週、駅や喫茶店のトイレでボディコンのユニホームに着替え、ここに来る。「お立ち台で踊ると気持ちいい」「注目されるし、自己満足できるから」。彼女らは、汗も乾かぬうちに、またお立ち台に戻っていった。

次第に過激化していくボディコン  マハラジャ麻布十番 岩崎トモアキ「東京ディスコ80’s&90’s」


派手さ競い
彼女らを「自己主張がうまく、自分に対して正直なのでは」とみるのは、店長の塩尻浩三さん(30)。 時に女性同士の競争心から、派手さがエスカレートすることもあるそうで、上半身裸になろうとする女性がいて、止めに入ったこともあったという。

”見物”のおじさんも

 「DJはディスコの管制塔。いかにいい雰囲気をつくるか、ですね」そう語るのは、この道九年目の中原俊浩さん(28)。 仕事は、選曲、照明など。「お立ち台を明るくしたりして、女の子が目立つようにいろいろ工夫します。店の華ですから」 天井やお立ち台のライトが、赤や緑の光を浴びせかけ、テクノ・ハウスの、サイレンのうなりにも似たシンセサイザーの音。 ホールはやがて、SF映画の輝くUFOのように揺れ、舞い上がる。 「下からおじさんがじっと見てるんです。なにか嫌ですねえ」足元で視線を感じることが、ままあるらしいが、土曜日には、千人以上が踊りに来るのだし、おじさんたちがいたっていいではないか。 この夜はざっと見渡すと、年配者は10人以上。遠くからギャルたちを見ていた30代後半の男女3人。「初めてここに『見物』に来た」。男性の一人は「派手に踊ってるけど、まあええやないの。僕らかて見てたら楽しいしねえ」と、ほほ笑む。 ここは、いつしかニュー観光スポットになっているようだ。

 まあ、オッサンは街中で、そんな女どもを見て、はぁ・・、世の中変わった、というため息をつきながら、週刊誌的な、身体の線がはっきり出るボディコンに見惚れている。ボディコンは今でもコスプレとして人気は絶大です。
 
ボディコン倶楽部(BCC)(ビデオ)      King&QueenのVIPルーム

 90年代に入ると(バブル景気は終了しつつある)、芝浦に拠点が移り、ジュリアナ東京や芝浦GOLDなど有名なディスコが次々とオープンしていきます。
<ジュリアナ(91年5月〜94年8月 東京芝浦>
 
ジュリアナ東京の入り口
                          岩崎トモアキ「東京ディスコ80’s&90’s」
歴史読本「日本の性」
  
 この名物のお立ち台は、ジュリアナでは高さ1.2m、幅1.6m、長さ9mの鉄骨台だそうです。

 ワンレンからソバージュがかかったスタイルに変遷し、爪長、トサカ前髪。肩パットのフク、太い眉毛、ハイヒールが定番というか、皆、同じ格好をしている。まあ、ド派手な、今では恥ずかしい世界です。ディスコに赤のフェラーリで乗りつける、そういうのが格好良いと認められた時代です。このファッションは相当に高額で、ブランドもので身を固めていますから、お一人様、一体いくらかの金で身を包んでいるかの世界です。ブランド品を洪水のように使う消費が、この時代に確立し、不況に入ってもブランド品の消費は止まることなく続くことになります。
 お立ち台の女王荒木師匠がカリスマ的な人気があったようです。週刊誌によれば、お立ち台の階上には女性VIPルームがあり、そこに入れるというのがステータス。有名人などしか入れない場所だったと聞きます。そこは飲み放題、食べ放題、男なんかよりどりみどり。毎日がお祭のようだったと思い出を語る女性達がいます。

都築響一「バブルの肖像」から

ちょっと年をくった荒木師匠
        岩崎トモアキ「東京ディスコ80’s&90’s」
                            


西原理恵子「怨ミシュラン」

 二ノ宮知子さんの「トレンドの女王ミホ」にジュリアナについて書いてあったものを紹介します。『1991年芝浦にオープンした大型ディスコ。ニューヨークの真似かなんかで、湾岸にある倉庫を改造した店がオシャレだと、もてはたされていた。 開店当初は流行の最先端を意識して、内装にこだわりイタ飯なんぞを出していたが、ミニスカ・ボディコンの羽扇子のイケイケ姉ちゃん達がお立ち台でパンツを見せびらかし、それを拝もうとする野郎どもが鯉のようにお立ち台の下に集まる・・・どこがオシャレなんだかという様相を呈していった。 「パンツを見せる場所&パンツを見る場所」なる固定概念の定着により(また、クラブの流行もあって)客足が遠のき、1994年に閉店した。』

岩崎トモアキ「東京ディスコ80’s&90’s」

 読売新聞2012.8.8、東京の記憶にジュリアナ東京が紹介されていました。それによれば、最盛期には一般客は4時間待ちもあったとか、最大で500人の客が入りきらずに入店を断った日もあったとか。総工費15億円。総面積千u、ダンスフロア160u、天井高8m、座席数500、最大収容人数2000人という最大規模のディスコだった。初年度の入場者数は32万人、翌年は61万人。平成5年に経営母体が変わり、過激化した「お立ち台」に警察がクレームをつけ、撤去したことで、客足が遠のいたのが、平成6年の閉店に至る要因とあります。

読売新聞92年5月頃                   お立ち台が復活した平成6年8月30日の夜。翌日に閉店。最後は過去最高の6千人が入場

芝浦GOLD

児玉房子「千年後には」

 もう一つの伝説のディスコ、
MZA ARIAKE(有明)があります(現在はディファ有明)。Wikiから『東京臨海副都心の開発が行われる約10年前の有明地区はまだ倉庫街であったが、不動産企業のエムザグループが、倉庫となっていた建物を安く借り受け、空間プロデューサー・山本コテツと角章がデザインを手がけて改装し、イベント施設として1988年7月21日にオープンした。ライブハウス・イベントホールの「サウンドコロシアム」、ディスコの「クラブ・ガティル」のほか、レストラン、カフェ、貸しスタジオなども併設していた。
 再開発が始まる十年近く前であったため、バス(「エムザ有明前」のバス停が存在した)もしくはシャトルバスを利用する以外は交通手段も無かったが、主に利用客はタクシーやマイカーを使っていた。
 1980年代後半のディスコブーム、更にバブル真っ只中だった時代、都心の家賃が高騰したため、湾岸線などに存在した倉庫や工場跡を借り、内部を改装してディスコやライブハウスとしてオープンするというウォーターフロントブームの先駆けとなった。
 M.C.ハマーを始めとして多くの外タレがライブを行い、1990年3月には24年ぶりに来日したポール・マッカートニーが同所で記者会見を行い、さらに異例のライブパフォーマンスを行った。しかしながら、1991年、バブル崩壊により親会社が経営不振となり、MZAは閉店(閉店公演はスレイヤーによるライブ)。』写真は http://www.geocities.jp/maharajastory/1top5.htmlより(88年開店、91年閉店)



かわぐちかいじ「獣のように」                                               江口寿史

六本木の
トゥーリア



 映画ブレードランナーのデザインを担当したシド・ミードがイメージを担当。 87年にオープンし、有名芸能人やプロ野球選手もよく来るという人気スポットでマドンナも来店したことがあるという話です。総床面積392平方メートル、収容人数約800人。当時高級ディスコブームの代表的存在で、 店の入り口ではモニターによる服装チェックがあり、それに合格しなければ入店できない仕組みになっていました。 店内には洒落たレストランやバーがあり、中でも3億円を投じた照明装置が目玉で、大中小の三層式で天井からワイヤーで吊られていました。店として素晴らしかったという評価があり、踊るだけでなく食事もでき、フロアごとに違う雰囲気作りがされていた。静かなバーで話すこともできたと言います。
 オープンの翌年の88年1月4日、このワイヤーが切れ、フロアで踊っていた30人あまりが巨大な照明装置の下敷きになり、3人が死亡、14人が重軽傷を負う事故により閉店します。 わずか半年であったけれど、ディスコの一番良い時期、一番良いイメージのままに閉店したとも。
 このトゥリーアのオーナーがF1サーカスのレイトンハウスをオーナーでもあった赤城明です。 赤城は典型的なバブル紳士で派手な遊びとタレントの石原真理子を始め、いろいろな女性達との浮名も流れます。 スポーツ界のタニマチとしても知られ、中日ドラゴンズの星野仙一とは盟友の間柄とも言われました。 トゥーリアの事件をもものともせずに突っ走って行きます。


パックシアターサイカ

パックスシアターサイカのオープン時のスタッフが当時の様子をコメントしているページがありました。このブログの一番下です。写真もこのブログから引用させてもらいました。

ブログから引用です。

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サイカの入り口には巨大なロケットの様なものがたっている。作業クレーンが吊り上げている。

杉山「あのロケット、本物の宇宙ロケットだぞ。ソ連から50億円でレンタルしたんだ」
ブン「うっそ〜?高いっすね」
杉山「ま〜はったりだからなw」

サイカに入り、大き目のロビーがあった。巨大なマイケルジャクソンの肖像を壁に設置しているところだった。
杉元「あの肖像は2億円する。」

 俺には縁のない億という単位が乱発される。ほえ〜〜っという感じで周りを見渡すと、金髪で長髪の外人が、サングラスをかけた日本人と立ち話をしている。

ブン「うわっ ロッドスチュートに似ている外人だな〜」
杉山「本人だ」
ブン「うそ〜 俺大ファンなんっすよ なんでここに?」
杉山「あさってオープン日に歌うからな。彼のギャラは4億だ」

俺がジーッと見ていると、ロッド本人が気がついて手をあげた。
「hi コニ↑チ↓ワ〜↓」
「な、な、ナイスミーティング…」
心臓ばくばくだ。

ありえない光景の連続だ。なんなんだここは。そしてロビーを抜けるとそこは小学校の体育館を4つほどあわせたような広さをもつホールだった。天井からは巨大なミラーボールが吊り下げられていた。そのホールから階段2階ぶんほどあがったとこブースはあった。巨大な音響ミキサーや照明コントローラーのとなりに、小さなテレビがたくさんならだような席があった。LD,シブサンデッキ,ビデオミキサー(DVE),ビデオスイッチャー・・・・。


土田世紀「ギラギラ」

 ボディ・コン娘達は男性誌に多く紹介されました。
GORO 1989.9.12号
 ボディコンと言えば、下着のラインを消すためにTバックが大流行し、これまた、男が大喜びしてしまうワケワカメが発生します。Tバックはお尻の部分がヒモ、もしくは極端に細い幅で、後ろから見るとTに見えることから名づけられたものです。今でもそうですが、男大好き、女の方、特に日本女性には歓迎されないものだったようで、男性誌はともかく、実際には普及しないものだったようです。 現在では、むしろホモのファッションと化しています。
Tバック


2007年6月、コムスンの話題から、ジュリアナ東京の仕掛け人であった折口雅博氏が取り上げられていましたので追加します。


経歴から。

1985年 日商岩井入社(23歳)
日本ユニバック(現・日本ユニシス)で1年間コンピュータの販売を経験した後、1985年、日商岩井入社。電子機器部に配属され、東欧向けオーディオ製品の輸出に携わる。初年度から大胆なことをする「はみ出し社員」ながらも、必ず利益を出し、人事評価は、査定のつく入社4年目からつねに「A」。1988年、円高により輸出業務撤退。電子機器とレジャー産業の結びつきを考えるようになり、1989年、27歳のとき、浜松にインドアウォーターパークを建設。電子産業部の一社員が建設の元請け契約を成立させたことで社内を驚かせた。
1991年 ジュリアナ東京総合プロデュース、日商岩井退社(30歳)
レジャー産業を探求する途上で、スペース対利益の究極としてディスコをプラン。施設作りでは世界トップクラスの英国ウェンブリー社を起用し、ジュリアナ東京プロジェクトを実行。大手商社と有名ディスコの提携という話題性を活かし、5月開業。「商社に就職したのは、大きな仕事をやりたかったから。30歳までに辞めて起業するか、残って役員になるか」決めていた折口にとって、ジュリアナはあくまで起業のきっかけでしかなかった。社会現象となるほどの爆発的ブームを作り出し、巨額の利益を生み出しながらも、利権争いに巻き込まれ、去ることになる。
 
1994年 ヴェルファーレ設立(33歳)
六本木に1200平方メートルの好適地を見つけ、ジュリアナの経験をフルに活かし、独力で再スタート。1993年11月(株)ヴェルファーレ設立、社長に就任。1994年12月オープン。40億円を超える大プロジェクトは、ジュリアナ東京に続く大ヒットを記録し「時代の寵児」と呼ばれた。店名は「ヴェルサーチ」「フェラーリ」「アルマーニ」などを混ぜ、自身で考案した。

ヴェルファーレ

(インタビュー)
 グッドウィル・グループの会長兼CEOである折口雅博氏は、ユニークな経歴の持ち主だ。父親が事業に失敗して高校に進む資金がなかったことから、授業料が免除される陸上自衛隊少年工科学校へ進学を決める。 そして防衛大学校の理工学専攻を卒業。総合商社の日商岩井(現・双日)に就職し、ディスコ「ジュリアナ東京」を手掛けた。
 ジュリアナ東京のプロジェクトでは、利権争いから多額の借金を負うなど、平坦ではない人生を歩んできた。厳しい局面にも立たされた。 だが折口氏は、「逆境に陥っても、自分を成長させるチャンスだととらえた。もう駄目だと考えることもできるが、考え方次第で、逆境もチャンスに変わる」と話す。

 事業を成功するためのポイントを「センターピン理論」と呼んでいます。ビジネスをボウリングに例えれば、成功はストライクです。 ストライクを取るためには「センターピン」を外してはならない、という意味です。センターピン、つまり事業の本質が何かをきちんと見極めることができなければ、成功なんてできっこありません。

 例えば、ジュリアナ東京を運営していたときには、たくさんのディスコを見学に行きました。 すると、サービスは悪い、食べ物もまずい(笑)。 それなのにはやっているディスコがある。なんではやっているんだ?と一生懸命観察しました。 その結果得た答は、「お祭りみたいに場が盛り上がっているから」でした。ディスコは、満員で盛り上がっているからこそ楽しい。 ディスコ事業のセンターピンは、「毎日、お客さんで満員にすることだ」と考えたわけです。 それをふまえて、満員にするための仕掛けを考え、実際に成功しました。

 読売新聞の2012.8.8の記事によれば、それほど容易でもなかった話が書かれています。当初は曲の選曲が悪く、パラパラしか入らなかったので、DJにDJ-PASSIONの堀田氏を呼び、テクノを入れ、外国人DJを入れて、店で流れる曲が大ヒットしたことで、全国から客が集まったとあります。3年半の来場者数は200万人を越え、最終日には1万人近くが押し寄せたとあります。


 その他、いくつか画像で収集できたディスコを紹介します。

Jトリップグラムスラム横浜(91年開場)
                   フロア885u、収容700人、総事業費2億円、入場料男4500円、女4000円。

anan1988.11.18

2008年9月 一夜限りの復活をジュリアナ東京が行いました。ハウスネーション(10月24日)、ツインスター(11月22日)、ヴェルファーレ(12月5日)、マハラジャ(2009年1月30日)と、都内各所で伝説のディスコを復活させるそうです。ジュリアナの写真をネットから拾いました。皆、この時代が好きなんだなぁと、つくづく思いました。
こちらは復活イベント(2008)


復活イベント(2008.9)
 どうもこの映像を見ると、昔よりひどく過激になっているようです。一番上の写真に比べて・・・。実にTV局は下品ですな。当時の週刊誌も、まぁ、こんな感じでしたが、Tバックは時代的に後だし、素人さんはこんなに露骨ではなかったような。昔はこんなワイド・ショーで取り上げることはなかったようには思いますが、さて、どうでしたか。あの頃は、そんなに珍しい感じではなく、TVの話題にし難い、あるいはプライバシーの問題もあって出し難い、そんな気がします。

 ボディコンお立ち台ギャルコンテスト@バブルディスコ


                           復活ツインスター(2008年11月22日)
 復活イベントのスレがありましたので、一応、貼っておきます。

 イギリスから、ナイトクラブやディスコではない、新しいパーティー経験と音楽を求めて、倉庫や郊外の廃屋や農場などを利用してフリー・パーティーを自らの手で開いた レイヴ(RAVE)が伝わり、日本でもブームになります。無料もあるようですが、多くが有料のパーティで、湖畔など野外で一晩中、踊り開かすことも多いようです。欧米ではドラッグでラリッた状態が普通のようですが、日本はおとなしいものです。
宝島「ウラ東京観光」


その後
 94年にジュリアナ東京が閉店、『この頃から自分に合った音を求めるコアな常連客だけで営業が成り立つクラブが主流を占めるようになり、またドレスコードの高級スーツやボディコンから、カジュアルなジーンズにスニーカーが人気となり、いわゆる「ディスコ」から「クラブ」に変化した時でもある。集客スタイルも豪華な店や黒服からDJやオーガナイザーに変わり全国的に大型店が閉店しディスコ時代の終焉となる。・・風適法3号営業のいわゆるディスコ登録店は原則24時の閉店が義務なのに対し、クラブは飲食店登録のため終夜営業が可能であることも、大きく、今はすべてクラブとなっている。』(Wikiから)

井上三太「TOKYO TRIBE」
 上のような大型店以外では、こんな感じのようです。

別冊宝島「歓楽街攻略読本’98」