King&Queen
のVIPルーム

金ピカの時代〜狂熱のディスコ〜


ディスコブームが80年代に入ってから起きてきます。私自身は評判になったので、確か、渋谷かどこかに若い人に連れて行ってもらったことがありました。我々ゴーゴー世代からすると、皆が舞台に向かって同じステップを切って踊るというのは、何か機械的で抵抗がありました。 まあ、ともかく入り口には黒服の兄さんが、客をチェックしていましたし、オッサンの行くところではありませんな。多分、私が36,7歳くらいの頃です。 週刊誌のグラビアには、お立ち台に立って、ジュリアナ扇子を持って踊りまくる娘どもの写真で溢れていました。大勢が写っている写真はバブル時代の写真募集で見つけたマハラジャとジュリアナ東京の写真です。

80年代はマハラジャを中心にした六本木がディスコの中心地で、80年代も半ばを過ぎると、ワンレン・ボディコンと言われる女性のスタイルが確立されていきます。男はアルマーニのスーツに、まっ黄色か青のネクタイ、金のジャラジャラしたものを身に付けます。

90年代に入ると(バブル景気は終了しつつある)、芝浦に拠点が移り、ジュリアナ東京や芝浦GOLDなど有名なディスコが次々とオープンしていきます。
ワンレンからソバージュがかかったスタイルに変遷し、爪長、トサカ前髪。肩パットのフク、太い眉毛、ハイヒールが定番というか、皆、同じ格好をしている。まあ、ド派手な、今では恥ずかしい世界です。ディスコに赤のフェラーリで乗りつける、そういうのが格好良いと認められた時代です。
お立ち台の女王荒木師匠がカリスマ的な人気があったようです。週刊誌によれば、お立ち台の階上には女性VIPルームがあり、そこに入れるというのがステータス。有名人などしか入れない場所だったと聞きます。そこは飲み放題、食べ放題、男なんかよりどりみどり。毎日がお祭のようだったと思い出を語る女性達がいます。


  
<マハラジャ>

平成5年8月24日 京都新聞夕刊より引用

「バスや電車の中で、横に立つ女性の方が背が高い時なんか、肩身が狭いなあ・・・」。男ばかりで集まれば、こんな愚痴がつい出てしまうほど、近ごろの女性の目立ちっぷり?は、いやに気になる。そんな男たちを台の上から見下ろし踊り回るセクシーなボディコンの女の子たち。東京都内のディスコ「ジュリアナ東京」に始まった熱い旋風が、昨年暮れ「マハラジャ祇園」(京都市東山区祇園町)にも上陸。三味線の音が流れてきそうな「祇園」の文字が「GION」に変わり、やがて電飾のように輝きそうな土曜の夜、冷夏も吹っ飛ぶ場内に足を踏み入れた。

目立つのが快感なの

 午後九時。それまでレストランだった場内から客が去ると、にわかに空気まで一変。次々やって来るふだん着の若者たちの中に、ひときわ目立つ女性たちが数人。いずれもハイヒールに超ミニのスカート、ボディーラインもあらわな白や黒の衣装。手には鳥の羽根をいっぱいつけたような扇子を持つ。うむ、最近テレビや週刊誌をにぎわす「お立ち台ギャル」とは彼女たちのことか。 中央のホールに客が集まり、踊り出す。初めは、ふだん着組が軽く体を動かす程度だったが、一時間後。ころ合いをみはからったように、十数人のギャルがさっそうと、お立ち台に並んだ。場内の沸騰点がぐんぐん上昇する中、「ゴールデンタイム」を迎えた。

 祇園店名古屋店

まるで女神

 ホールの周りの高さ約1.5メートルほどの台に上ったギャルは、扇子をひらめかせつつ腰を大きく左右に振る。ホールにひしめく百人近くが彼女らを仰ぎ、動きを合わせ始めた。踊りをリードし、一群を陶酔状態に導く彼女らはまるで女神か菩薩(ぼさつ)のようなまばゆさだ。 「職場のストレスを吹き飛ばせる」「職場以外の友達ができる」と、お立ち台効果について、城陽市のOL(20)と、山科区のインストラクター(20)は、そう答えた。「昨年の夏からこのスタイルで踊り続けている」という南区の歯科衛生士(21)と大阪市旭区のフリーター(20)は「この服装、目立つし、かわいいもん」。 女の子の中には、親がテレビでジュリアナ東京の模様を見て「あんた、こんなことしてるの」と、怒られた人もいるのだが・・・。彼女らは、ほとんど毎週、駅や喫茶店のトイレでボディコンのユニホームに着替え、ここに来る。「お立ち台で踊ると気持ちいい」「注目されるし、自己満足できるから」。彼女らは、汗も乾かぬうちに、またお立ち台に戻っていった。

派手さ競い

彼女らを「自己主張がうまく、自分に対して正直なのでは」とみるのは、店長の塩尻浩三さん(30)。時に女性同士の競争心から、派手さがエスカレートすることもあるそうで、上半身裸になろうとする女性がいて、止めに入ったこともあったという。

”見物”のおじさんも

 「DJはディスコの管制塔。いかにいい雰囲気をつくるか、ですね」そう語るのは、この道九年目の中原俊浩さん(28)。仕事は、選曲、照明など。「お立ち台を明るくしたりして、女の子が目立つようにいろいろ工夫します。店の華ですから」 天井やお立ち台のライトが、赤や緑の光を浴びせかけ、テクノ・ハウスの、サイレンのうなりにも似たシンセサイザーの音。ホールはやがて、SF映画の輝くUFOのように揺れ、舞い上がる。 「下からおじさんがじっと見てるんです。なにか嫌ですねえ」足元で視線を感じることが、ままあるらしいが、土曜日には、千人以上が踊りに来るのだし、おじさんたちがいたっていいではないか。 この夜はざっと見渡すと、年配者は10人以上。遠くからギャルたちを見ていた30代後半の男女3人。「初めてここに『見物』に来た」。男性の一人は「派手に踊ってるけど、まあええやないの。僕らかて見てたら楽しいしねえ」と、ほほ笑む。 ここは、いつしかニュー観光スポットになっているようだ。


まあ、オッサンは街中で、そんな女どもを見て、はぁ・・、世の中変わった、というため息をつきながら、週刊誌的な、身体の線がはっきり出るボディコンに見惚れている。ボディコンは今でもコスプレとして人気は絶大です。
ボディコン倶楽部(BCC)(ビデオ)

<ジュリアナ(91年5月〜94年8月 東京芝浦>
  

     
都築響一「バブルの肖像」から                                       荒木師匠


もう一つの伝説のディスコ、MZA ARIAKE(空間プロデューサー・山本コテツと角章がデザインを手がけた)
写真は http://www.geocities.jp/maharajastory/1top5.htmlより(88年開店、91年閉店)


トゥーリア 映画ブレードランナーのデザインを担当したシド・ミードがイメージを担当。88年落下事故により閉店写真は上記のHP

パックスシアターサイカのオープン時のスタッフが当時の様子をコメントしているページがありました。このブログの一番下です。写真もこのブログから引用させてもらいました。
  
パックスシアターサイカ

ブログから引用です。

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サイカの入り口には巨大なロケットの様なものがたっている。作業クレーンが吊り上げている。

杉山「あのロケット、本物の宇宙ロケットだぞ。ソ連から50億円でレンタルしたんだ」
ブン「うっそ〜?高いっすね」
杉山「ま〜はったりだからなw」

サイカに入り、大き目のロビーがあった。巨大なマイケルジャクソンの肖像を壁に設置しているところだった。

杉元「あの肖像は2億円する。」

 俺には縁のない億という単位が乱発される。ほえ〜〜っという感じで周りを見渡すと、金髪で長髪の外人が、サングラスをかけた日本人と立ち話をしている。

ブン「うわっ ロッドスチュートに似ている外人だな〜」
杉山「本人だ」
ブン「うそ〜 俺大ファンなんっすよ なんでここに?」
杉山「あさってオープン日に歌うからな。彼のギャラは4億だ」

俺がジーッと見ていると、ロッド本人が気がついて手をあげた。
「hi コニ↑チ↓ワ〜↓」
「な、な、ナイスミーティング…」
心臓ばくばくだ。

ありえない光景の連続だ。なんなんだここは。そしてロビーを抜けるとそこは小学校の体育館を4つほどあわせたような広さをもつホールだった。天井からは巨大なミラーボールが吊り下げられていた。そのホールから階段2階ぶんほどあがったとこブースはあった。巨大な音響ミキサーや照明コントローラーのとなりに、小さなテレビがたくさんならだような席があった。LD,シブサンデッキ,ビデオミキサー(DVE),ビデオスイッチャー。


2007年6月
コムスンの話題から、ジュリアナ東京の仕掛け人であった折口雅博氏が取り上げられていましたので追加します。



経歴から。

1985年 日商岩井入社(23歳)
日本ユニバック(現・日本ユニシス)で1年間コンピュータの販売を経験した後、1985年、日商岩井入社。電子機器部に配属され、東欧向けオーディオ製品の輸出に携わる。初年度から大胆なことをする「はみ出し社員」ながらも、必ず利益を出し、人事評価は、査定のつく入社4年目からつねに「A」。1988年、円高により輸出業務撤退。電子機器とレジャー産業の結びつきを考えるようになり、1989年、27歳のとき、浜松にインドアウォーターパークを建設。電子産業部の一社員が建設の元請け契約を成立させたことで社内を驚かせた。
1991年 ジュリアナ東京総合プロデュース、日商岩井退社(30歳)
レジャー産業を探求する途上で、スペース対利益の究極としてディスコをプラン。施設作りでは世界トップクラスの英国ウェンブリー社を起用し、ジュリアナ東京プロジェクトを実行。大手商社と有名ディスコの提携という話題性を活かし、5月開業。「商社に就職したのは、大きな仕事をやりたかったから。30歳までに辞めて起業するか、残って役員になるか」決めていた折口にとって、ジュリアナはあくまで起業のきっかけでしかなかった。社会現象となるほどの爆発的ブームを作り出し、巨額の利益を生み出しながらも、利権争いに巻き込まれ、去ることになる。
 
1994年 ヴェルファーレ設立(33歳)
六本木に1200平方メートルの好適地を見つけ、ジュリアナの経験をフルに活かし、独力で再スタート。1993年11月(株)ヴェルファーレ設立、社長に就任。1994年12月オープン。40億円を超える大プロジェクトは、ジュリアナ東京に続く大ヒットを記録し「時代の寵児」と呼ばれた。店名は「ヴェルサーチ」「フェラーリ」「アルマーニ」などを混ぜ、自身で考案した。

ヴェルファーレ

(インタビュー)
グッドウィル・グループの会長兼CEOである折口雅博氏は、ユニークな経歴の持ち主だ。父親が事業に失敗して高校に進む資金がなかったことから、授業料が免除される陸上自衛隊少年工科学校へ進学を決める。そして防衛大学校の理工学専攻を卒業。総合商社の日商岩井(現・双日)に就職し、ディスコ「ジュリアナ東京」を手掛けた。
ジュリアナ東京のプロジェクトでは、利権争いから多額の借金を負うなど、平坦ではない人生を歩んできた。厳しい局面にも立たされた。だが折口氏は、「逆境に陥っても、自分を成長させるチャンスだととらえた。もう駄目だと考えることもできるが、考え方次第で、逆境もチャンスに変わる」と話す。

事業を成功するためのポイントを「センターピン理論」と呼んでいます。ビジネスをボウリングに例えれば、成功はストライクです。ストライクを取るためには「センターピン」を外してはならない、という意味です。センターピン、つまり事業の本質が何かをきちんと見極めることができなければ、成功なんてできっこありません。

例えば、ジュリアナ東京を運営していたときには、たくさんのディスコを見学に行きました。すると、サービスは悪い、食べ物もまずい(笑)。それなのにはやっているディスコがある。なんではやっているんだ?と一生懸命観察しました。その結果得た答は、「お祭りみたいに場が盛り上がっているから」でした。ディスコは、満員で盛り上がっているからこそ楽しい。ディスコ事業のセンターピンは、「毎日、お客さんで満員にすることだ」と考えたわけです。それをふまえて、満員にするための仕掛けを考え、実際に成功しました。

2008年9月 一夜限りの復活をジュリアナ東京が行いました。ハウスネーション(10月24日)、ツインスター(11月22日)、ヴェルファーレ(12月5日)、マハラジャ(2009年1月30日)と、都内各所で伝説のディスコを復活させるそうです。ジュリアナの写真をネットから拾いました。皆、この時代が好きなんだなぁと、つくづく思いました。


どうもこの映像を見ると、昔よりひどく過激になっているようです。一番上の写真に比べて・・・。実にTV局は下品ですな。当時の週刊誌も、まぁ、こんな感じでしたが、Tバックは時代的に後だし、素人さんはこんなに露骨ではなかったような。昔はこんなワイド・ショーで取り上げることはなかったようには思いますが、さて、どうでしたか。あの頃は、そんなに珍しい感じではなく、TVの話題にし難い、あるいはプライバシーの問題もあって出し難い、そんな気がします。


                                                                            復活ツインスター(2008年11月22日)