宮台真司氏によれば、1975年を境に子供達の世界は大きく変容したと言います。小中学生の塾通いが割合が急上昇し、家庭における教育費が急増していく。 「学校化」が進み、勉強ができないことが学校でも家庭でもいる場所を喪っていく。 私のような年回り(昭和20年生まれ)では、塾に通う子は稀でしたし、その塾も英語塾、そろばん塾など勉強全般を教えるということは少ないものでした。 また、農家や商家の子供、職人の子供は家を継ぐのが当たり前でしたので勉強ができないなんていうのは、家でも、学校でも、子供本人にとっても重要なことではありませんでした。 ちょっと不良がかっていた子供でも高校入試で勉強しだすと、あっという間にクラスのトップクラスになりました。 かくいう私もあまり勉強らしい勉強はしませんでした。この長く続いてきた子供世界が「勉強」によって大きく変容していくことになります。

ツッパリ/不良少年
 80年前後、勉強ができた若者達が自分探しに流浪していた頃(フリーター)、勉強のできない子達というか、世の中から落とされたと感じた子達が激しい抵抗を示します。この前後にはない規模で校内暴力が荒れ狂います。1981年の中学の卒業式に制服警官が何十人も張り付かなければ卒業式がまともには行われない学校がそれこそ何十校あったと言われています。藤井誠一氏が宮台真司氏との対談「脱社会と少年犯罪」の中で述べていることですが、金八先生でこういう不良を「腐ったミカン」と表現されます。教室というミカン箱に腐ったミカンが一つでも入っていれば全体が腐るというニュアンスですが、ドラマの中で「俺は腐ったミカンじゃない」と不良が叫ぶ場面が出てくる。
 学校を出れば、他の学校の生徒と眼が合おうものなら、その場で殴り合いとか、隣の学校から50人攻めてきたとか、向こうの学校から100人攻めてきたとか、年がら年中、戦争状態にあった学校が、どこの地域でも見られたのです。多くが暴走行為に走っていきます。

          
 竹の子族とも絡めて海外メディアでも注目されて、上の2枚はフランスのManchete1986からです。 今見ると、恐さよりも何か楽しいです。



松本大洋「青い春」

遠原美喜男写真集「ドキュメント未成年」
 70年前後の若者に大流行したシンナーを使って恍惚感を得る形が、たやすく手に入ったということもあって、結構、この時代になってもツッパリの中高校生たちに流行っていたようです。

 自分探しと同じく何だったんでしょうかねぇ、としか言いようもないものです。中高校生達にとって世間に対して突っ張る、不良ポイ格好して、路上でブータレていることが自己表現でした。 当時はツッパリと呼びました。ちょっと読み難いですが、下の写真は警視庁が発表した、お子さんがこういう格好をしたら注意してくださいのポスターからツッパリ君の意見を入れたもののようですが。 隣の写真のネコちゃんは、なめ猫キャラ、これも政府広報です。暴走族の大流行に相当に手を焼いていたようですが、今となっては、解明することが難しい世界です。



 本人達はともかくとして、こういう格好に周りから凄い興味を持って見られていたことが分かります。
こちらのおネイさんが典型かも 写楽1981.9


 ツッパリの気持ちに合っていたのは横浜銀蝿でありました。

 当時の漫画ビー・バップ・ハイスクールは、 中身はほとんどないにもかかわらず、大ヒットしたのは、この時代の先端部分だったからかもしれません。 何となくここいらになると、笑ってしまう部分と青春しているなぁという感じが濃くなります。

映画ビーパップ・ハイスクール
映画「ガキ帝国」

Watch ガキ帝国(1981 ATG)予告込(704x396)(1h58m38s)_.wmv in エンターテイメント | View More Free Videos Online at Veoh.com

 荒れる卒業式が話題になっていまして、警官による厳戒態勢の下、行われました。 “静かな”というのは随分、皮肉を込めています。丁度、同じ頃に一方ではカワイイ革命が起こっているのですから、この時代は面白い。


アサヒグラフ1982.4.2
右のこういう感じの女の子もいました

 ツッパリからヤクザへ、一部にそういう動きが出るのは当然です。14歳から18歳くらいまでの少年達が歌舞伎町を徘徊する。 彼ら流の言い方でブイブイ言わせていたことになります。彼らが組のバッチを本当に持っていたのかは不明です。 そして組のバッチを持っても、果たしてそれ以降も、ヤクザとして生きたかどうかは何も分からない。

 「実録不夜城」(ワニマガジン社)の中で栃内良氏が80年前後、歌舞伎町が最も危険な時代と書いています、『70年代後半、10代の少年少女の溜まり場となったのはディスコ、深夜喫茶、ゲームセンターだった。・・特にディスコは全盛期と呼ぶ状況にあった。歌舞伎町だけで20軒以上がひしめき合っていた。カンタベリーハウス、ニューヨーク、B&B・・・、すべて千円ちょっとで飲み食いでき朝までいることができた。・・集団化するにつれてディスコ内で無茶な行為をするようになり、・・邪魔な一般客を殴る蹴る、中にはOLや女子大生をトイレに連れ込んで強姦まがいの行為をするものもいた。80年前後、スケバングループ、女愚連隊、少女右翼といったものが歌舞伎町に20以上あった。1チームの数は10人から30人。元暴走族、家出少女、高校中退少女達が大部分だった。・・グループを抜ける時は・・・激しい凄惨なリンチが行われた。売春とクスリも当然のように浸透していった。クスリの主役はトルエン。ヤクザの手足となった不良グループが売人を勤めた。暴行、カツアゲ、輪姦、売春、トルエン。80年前後の歌舞伎町に巣食う10代の少女達は荒れていた』。殺人事件も連発したようです。これに警察も本腰を入れて取締りを開始し殲滅させるのです。一番最初の警察の呼びかけも、その当時、作られたものなのでしょう。そう言えば、このころTVでスケバン・デカというのが、流行っていました。



小学館「写楽」1982#2より。写真は橋口譲二
橋口譲二「視線」

 歌舞伎町最大規模のディスコ、ニューヨークニューヨークの看板などが写っています。

中居裕恭「新宿ゲイ」



写楽’82.6

 この数年先にバブルが始まり、金の熱狂によって闇の勢力が表の世界に侵入することが起きてきます。 地上げや買占め、絵画取引・ゴルフ会員権に関わるトラブル、恐喝、詐欺、殺人などなど、ヤクザ及び企業舎弟が関わる事件が頻発することになります。 そしてバブルが崩壊する頃には蛇頭、中国人マフィアが歌舞伎町を闊歩する時代がやってくる。 この橋口譲二が写した少年達は、どのような人生を歩んだのか・・・・。

 右翼に走った子もでました。この写真も橋口さんです。

写楽81.11
倉田精二「フォト・キャバレー」
 そう言えば右翼の街宣車が登場するのも70年代も末の頃のような気がしますし、それが街宣右翼とみなされるようになるのも、この時代であったように思います。